僕はある時から、ごちゃごちゃしている空間が苦手になった。
目に入るものに刺激を受けやすくなったからかもしれない。
確かに若いころよりも、視界に映る景色に心動かされることが多くなった。昔は何とも思わなかった、思えなかった、感じなかった景色に『美しい』と感じたり『切ない』と感じたりすることが多くなった。
こうやって、視界に飛びこんでくるものにいちいち刺激を受けるものだから、その情報量が多ければ多いほど、何かを感じてしまう。考えてしまう。だからこそ情報は少ない方がいい。必要な物だけでいい。
情報量が多い事を苦手と感じるようになったから、ごちゃごちゃした空間が苦手になった。そしてこのことは年齢を重ねるごとに進行していった。
僕はとにかく『シンプル』を好む。物事を考える時もそうだし、家の中を含めた空間もそうだ。シンプルにするには『ごちゃごちゃ』していてはダメで。だから僕はよく物(思考)を省く。
たとえば家の中。使わなくなったものを捨てる。いつか使うかも?という『いつか』は僕にはやってこないことを43年間で学んだ。
ミニマリストほどひどくはないが、僕の家には物が少ない。物が少ないからごちゃごちゃしていない。しようがない。スペースの大きく開いたリビングを僕はとても気に入っている。
ずっと使っていない物を見つけた時、それを捨てる事を決めた時。そして本当に捨てた時、僕の心はすっきりとして満足する。
ごちゃごちゃが解消されるいうことは、視界に飛び込んでくる情報量が少なくなるということでそれは、思考がシンプルになるということ。蛇行が無く真っすぐ目の前を見渡すことができるということじゃないだろうか。物理的にも精神的にも。
このことは人それぞれだと理解しているけれども。
このような考え方の僕は、ラインのトーク画面に表示されている人たちをとても大切にしている。確実に交流がある人たちだからだ。明確なルールは無いが長い間交流が無い人は非表示にして目につかないようにする。トーク画面だけではなく、友達画面からも非表示にしてしまう。前述した通り、思考をシンプルにするためだ。
そうやって非表示にしてきた中にはもう数年やりとりが無い人もいる。こうなると僕の癖である『捨てたい』願望が芽生えてくる。しかし人は物とは違う。そう簡単に捨てる事は出来ない。ここで言う『捨てる』とは友達から削除するということで、もし万が一先方から連絡があった場合、僕には見る事ができなくなるということだ。
先方にはいつまでも既読がつかないラインが残りそしてそのことで不快に思わせる事になる。削除されたのだと気づくことになる。だから基本的にその人とはもう二度と交流できない。
こんなことを考えてしまうので削除出来ずにいる。
僕のラインには非表示になったままの、現在は交流の途絶えてしまった、大昔は仲のよかった思い出沢山の人たちが並んでいる。
でもどうだろう。僕が削除するまえに既に彼らが僕を削除してはいないだろうか。ためらっている僕は無意味なのではないだろうか。そんなことを考えながらスマホの画面に縦に並んだ非表示リストを眺める。
懐かしい記憶が蘇る。過去の自分や友達との楽しかった思い出。きっと削除してしまえばもう今は思い出すきっかけが無い。
今はまだあの時の記憶を失いたくない。そう思えただけでも僕にとって非表示リストはまだ大切なリストなのだと思った。
現在使わない物、役に立たないものは確かに不必要な物だと思う。汚れていて不快に感じるものや、古くてしっかり機能しない物も。でも人との思い出は別に今使うものじゃないけど、確実に今の僕を成す何かになっていて、だから捨てる事はできない。
交流が無くなった人たちのラインに僕は残ることが出来ているのだろうか。確かめようは無いけれど、確かめる勇気も無いけれど、出来る事なら残っていたいと思った。
たまには僕を思い出してもらいたいと思った。
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。