雨のち いずれ晴れ

ホントは寂しがりやのシングルファザーが叫ぶ! 誰かに届け!誰かに響け!!

方向音痴

たまに突然『ぽか~ん』となるときがある。

理由や原因は分からない。

昨日の業務終了前からぽか~ん状態が始まった。

『ぽか~ん状態』とは、何かに満たされない気持ちが襲ってきて寂しいような悲しいような感覚になり思考が弱くなってしまう。

ぽか~んとしながら無音の部屋で時計の秒針をずっと眺めていられる状態というと伝わりやすいだろうか。

このような状態はずっと昔からあった。定期的ではないし、一年に一度はそうなると決まっているわけでもない。しかし僕を時折襲ってくるこの感覚に戸惑っていたし、どうにか対処したいと思っていた。原因を探ってみても見当たらない。別に今はストレスなど無い。でもこの感覚をなんとかしたくて、何とかする方法を模索してみる。

単純に思いつくのは飲みに出かける事であり、そこで美味しい物を食べて美味しい酒を飲んでみたいと思う。はたしてそれでこの感覚が消えてくれるのかは分からないのだけれど。

過去を辿ってみると、ぽか~ん状態に対処すべく飲みに出かけた事はあり、結果、ただ酔って帰宅しそのまま眠ってしまい翌日を迎えるということはあった。効果があったという思いはなかった。でもやっぱりその他の方法が思いつかなくて、だから飲みに出かけようと考えた。誰と行こうか?それとも一人で行こうか?じゃあどこに行こうか?こんなことをグルグルと考えているうちに、少しだけめんどくさくなった。飲みに出かけることもそうだし、ぽか~ん状態の自分に対しても。

この時は帰宅途中であり運転中でもあり、信号や周囲の状況は認識しているのだが、現実としてのリアリティは薄い。周囲や自分に危険を及ぼさないようにと気持ちに力を入れようとしてふと思ったことがあった。

『実家に帰りたい』

頭の中にぼんやりとはっきりと浮かんできたこの案に、笑ってしまった。

 

僕の育った環境は荒れていて大人同士の喧嘩の絶えない家庭で育った。両親や祖父母には気持ちに余裕が無くて、僕や妹をかまっている優しさは無かった。喧嘩が絶えない日々は僕が高校を卒業するまで続いたし、就職して家を出た僕は逃げる事ができたが、まだ学生だった妹はその後もその荒れた家庭に残されることになった。たまに妹から聞く家庭の状態は相変わらず殺伐としていて、ずっと実家にとどまる妹が不思議でもあった。僕は当時本気で全員死ねばいいのにと思っていた。

大人とは、親とは子供のことを一番に思わなければならないし、それが『普通』だと思っていた。なのに僕の家庭にいる大人たちは喧嘩ばかりしていて、『一番』であるはずの僕たち兄妹に何か優しさを感じるような事柄をあたえてはくれなかった。僕はそう感じていた。

 

ぽか~ん状態の車中で一人。実家に帰りたいと思い、そんなことを思ってばかばかしくて笑ってしまった僕。あんなことがあったあの実家に戻りたいだなんて・・・やはり笑ってしまう。

補足すると現在は喧嘩の種である祖父母は他界し夫婦二人の両親だけで暮らしている。妹は嫁いで実家にはいない。喧嘩の種が無くなって間もなく、僕の父親が明るさをとりもどした。少しずつ、本当に少しずつだが、年老いた僕の両親は家庭の温かさを取り戻していった。現在も夫婦二人して喧嘩しているようだがそれは、どこの家庭にもあるようなそれと変わらない。

僕が離婚してからは特に両親には心配と迷惑をかけた。そしてやっと親の温かさや優しさを感じる事ができるまでに互いの関係が出来上がってきた。

 

 

ぽか~ん状態の僕は方向音痴になる。自分の意思がどこかにいってしまう。

自分がどこに向かい何がしたいか分からなくなる。どっちが北でどっちが南なのか分からなくなる。そんな状態で過去に遺恨が残っている実家に帰りたいとはどんな想いからなのだろうか。心の中をあさっていくと一つの理由にたどりついた。僕は甘えたいのだ。43歳のおっさんが何を言っているのかと、自分でも気持ち悪くなったが確かに僕は甘えたいのだ。そう確信した。

過去に何度か僕を襲ってきたぽか~ん状態の正体を僕は遂に見つけた。

 

幼いころから僕はずっと『自分で何とかしなきゃ』と思って生きてきた。荒れた家庭には精神的に頼れる人がいなかったし、外に出てもそうだった。大人になってからはなおさらで、世間の冷たさが身に染みた。自分の人生を変えられるのは自分でしかなくて、だから僕は努力したし自分を律して生きてきた。別に無理をしていた感覚は無いし、そんな生き方をしてきた自分が間違いだとも思わない。ただし今僕の周囲を見渡した時、甘えられる人は誰もいない。

 

他の人はどうなんだろう?甘えられる人っているのかな?

僕が言っている『甘え』とは何も、抱き着いてべたべたしたいだとか、頭をなでなでしてもらいたいだとか、そんなことを言っているのではなくて。

たとえば、疲れたなら「疲れた~」と正直に叫んで、家事等に手を付けない僕をそっと見守ってくれたり。たとえば、ぽか~ん状態の僕の酒に付き合って、隣で何も言わずにただ酒を飲んでくれる人だったり。僕が何もまったく気を遣わずに、現状のありのままの自分でいさせてくれる、そんな人が僕にとって『甘えさせてくれる人』なのだ。裏を返せば実家が今の僕にとっては唯一そういう場所なんだろう。

 

そう思った時僕は、はたと気づいた。思った。僕の子供たちにとって僕はそんな親なのだろうかと。もし僕の子供たちに『甘えられる人』が外部にいなかったとき、彼らの唯一の『甘えられる人』として僕を選んでくれるだろうかと。

 

昨夜は鈴虫の声とその後の雨の音が響いていて眠れなかった。だから早朝からこんなブログを書いてみた。それはやっと僕が親としての方向を見つけたような気がしたから。

こんなことを話せる人は僕にはいない。だからここに書かせてもらいました。

 

 

人間は孤独でも生きてはいける。でも一人でいい。たった一人でいいから『甘えられる人』を見つける事ができればそれは人生の最大の宝になるのだと思う。

どうか僕の子供たちがそんな人を見つけられますように。

 

 

 

少しでも誰かの心に響けたら!!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。