『どう違うというのだろうか、分かれてもう二度と会わないことと、○○が死んでしまうこととは。』
とある小説からの一節である。
相手が生きていれば、会いたいという行為に対して、『会わない』とか『会う』とかいう先方の意思を受け取ることが出来る。生きた答えを受け取ることができる。相手の生を感じることができる。
それだけで安心できる。
先日、娘がポロリと僕にこぼした。
「お母さんから連絡がこない」と。
離婚したのが8年前の夏。 そっか。もう8年にもなるのか・・・・・
単身で実家に帰った元嫁。長男と長女を僕に預けて。
離婚当初は長男が高校3年生。長女は中学2年生。
家族として全員集合で暮らしていたころの生活状況を鑑みて、母親が単身で出ていった事に対する違和感を持つこともなく僕のところに残った子供たち。
まだ幼く大人の深い事情に対して意見を持つまでに至らなかった子供たちは、母親だけが出て行った情況をすんなりと受け入れて、とにかく自分がどうなってしまうのかだけを不安に感じながらスタートした『出来事』ないしは『節目』もしくは『人生のターニングポイント』であったと思う。彼らにとっては。
生活は一変した。
離婚により家庭の不安定さが一気に好転に至る。
家族にとって顕著に表れてきたのが金銭的安定。
共働として、二馬力で運営していたころよりも、シングルファザーとして一馬力で運営しいった状態のほうが、明らかに楽になった。
そのことは未だに子供たちから賞賛を受ける。子を持つ親として、嫁んさんがいたころより改善している事情を伝えることはしないけど。
まさか自分の親が浪費家だったなんて言えない。その使い道が異性を含んで他方におよんでいたことなんて。
離婚に至った詳細を子供たちは知らない。知ってほしくも無い。
そんな中で成人式を数日後に控えた娘が僕に言う。
「こっちから連絡しないとお母さんからは連絡がこない」と。
刺激に対する単なる反応。刺激をしないと反応を受け取ることができない。
僕にはそう聞こえた。
親心とはどういうものなのか、僕自身まだ明確に言葉としては説明できない。
子供の行く末を不安に思う気持ちだとか、元気だろうかとか、困りごとはないのだろうかとか。単純に『不安』に感じる事なのかもしれない。
その『不安』は、子供=自分(親)というロジックが成立していると感じるからであると思う。
お腹を痛めて産み落とした実績と感覚を持つ『女』という性はまさにその象徴ではないだろうか。
そのことをやっと感じ始めた僕の娘は、現状に対する異常を遂に理解しはじめた。
それは母親に対する違和感と信頼が揺らぎ始めたことであり、僕が一番恐れていたことでもある。
親に捨てられた。もしくは子の人生より自分を優先させた。
このことほど酷なことはないのではないか。全世界の人間の中で唯一、無償で自分を労り信頼してくれる人間。手放して自分の全てをぶちまけることができる人間。それが親であり家族であり、確実な絆である。その絶大なる愛が、普通なら誰もが持っている感じているものが自分には半分無いと知る事実がいたたまれない。
たしかに離婚はした。でもそれは君たちには関係ない事。
大人として親として、君たちに多大なる迷惑をかけてしまった事を心からお詫びしたい。そのせめてもの償いとして、出来る限り周囲と変わらない、差が少ない状況で未来に君たちを届けること。そのことに全力を尽くすことを約束します。
離婚しても父親と母親であることに変わりはありません。
そうやって僕は生きてきた。今日までもこれからも。
元嫁の『母親としての自覚』が言葉だけのただの空気を震わす周波数じゃないことに期待したい。
行動を伴う事が人に何かを伝える手段なのだから。
あなたの『意思』を、その生をもって表現して欲しい。
せめて子供たちにだけでいいから。
少しでも誰かの心に響けたら!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。