「ありがとうございました」
突然声をかけかれた。
その時の僕は、膝に手を当てて下を向き、最大級の悔しさが、落胆が体の中で爆発し、それが、そのエネルギーが体外へ放出しないように、目を閉じて周囲を遮断し、暴れる獣を押さえつけている時だった。
振り返ってみるとそこには、短髪で白髪の男性が立っていた。
「ああ、さっきはどうも。こちらこそありがとうございました。」
僕の返事に笑顔で返してくれたその男性。
きっと年齢は65歳を超えている。しかしその仕上がった体は、首から上を切り取れば、僕と同じ年代に見える。
体のどの部分も、脂肪が少なくて、少し筋張った筋肉は見た目以上に柔らかそう。
姿勢のいいたたずまいは、どこかオーラを発していて、『紳士』という言葉が頭の中に浮かんだ。カッコいい年配男性だ。
「いや~。お互い気持ちよく走ってたんですけどねぇ。残念です。」
その男性は、はにかんだ笑顔をして僕に言った。
何の事なのか直ぐに分かった。最初に僕に言ってくれた感謝の言葉も含めて。
その男性とはレースの途中まで一緒に走った。
互いにペースが一緒で、並走する場面もあれば、どちらかが少し前に出て後ろを引っ張るときもあった。
この『引っ張る』という行為。マラソンを始めてから知った言葉だ。
※高橋尚子さんがいた!!
長い時間、一定のペースを維持することを求められる時、自分が先頭だと疲れる。スピードに対する目標物がなく、自分の感覚を常に意識しながら走らなければならない。
『引っ張る』という行為は、ペース維持の目標物になることで、後続の疲れを緩和する行為。後続は無心で走ることができ、余計なことを考えなくて済む。とてもありがたいのだ。
プロの大きな大会になると『ペーサー』というゼッケンを付けて、30キロ付近まで選手を引っ張るランナーを目にすることがあると思う。まさにこの事だ。
僕と年配の男性は、この大会で互いにこの役割を交代で行った。
別に僕たちが先頭集団などではない。そんなレベルでもない。
前方からダラダラと伸びるランナー集団の、どこか途中の中途半端な位置で走っていた。まさに、銀河系の端っこの太陽系みたいな位置だ。
ただ僕たちは互いにペースが一緒だった。本当にぴったりと一緒だった。
だから一言も言葉を交わさないのに、僕らは自然に『役割』を共有したのだ。
これが冒頭で僕に言ってくれた『ありがとうございました』の意味だ。
そして二番目に男性が発した「いや~。お互い気持ちよく走ってたんですけどねぇ。残念です。」の意味なのだが、本当にちょっと残念なことが起きた。
僕たちは途中で役割を終えた。
僕が男性に付いていけなくなったのだ。いつもの『不調』ってやつ。ここ数年続いている『例のあれ』ってやつ。
男性の背中がどんどん遠ざかっていく。
本来の僕なら、なんなく付いていけるスピードなのだけれど、今の僕は『本来』からは程遠い。そしてそのまま男性は見えなくなった。
とぼとぼと、まさに『とぼとぼ』と走りながら僕はラスト1キロまでたどり着いた。
すると前方に見覚えのある姿が。
あの男性が歩いていた。足を引きずっていた。
『あっ!』と思ったが、知り合いでもなく、別に言葉を交わしたわけでもない。そして情けないことに僕には声を発する余裕もない。
そのまま通り過ぎてゴールした。
本来なら、アクシデントが無かったら、男性の方が先にゴールしていた。でも結果的に僕が先にゴールすることになった。
これが「いや~。お互い気持ちよく走ってたんですけどねぇ。残念です。」の意味だ。
マラソンって本当に過酷なスポーツで、僕はどこかの段階で趣味以上になってしまって、そしてそんな人たちが沢山集まるのがマラソン大会。
こうなるとみんな、何かを犠牲にしながらトレーニングを積んで集まってくる。そこには各々のドラマがあり、想いがある。
だから僕は途中で歩いてしまった男性の気持ちが、凄く分かる。理解できる。
男性のはにかんだ笑顔の奥に隠れた悔しさは、また次の大会へと挑む、人生を豊かにする活力になる。
その後、僕たちは少し会話をして、最後に「またどこかでお会いしましょう!」って元気に挨拶をして別れた。
僕はこの男性のお陰で改めてマラソンの素晴しさを実感することができた。
たかが趣味の集まりなのに、見ず知らずの人たちを一瞬でも『仲間』だと感じさせてくれる、友達のように『親近感』を感じさせてくれる、時には『恋人』のようにサポートし合える、こんな気持ちを共有できるスポーツがマラソン。
だからこそ男性は、見ず知らずの僕に気軽に話かけてくれた。
これって、とってもとっても素晴らしいことだ。素敵な出会いだ。
僕はこれからもマラソンを、できる限り長く続けていこうと思う。
マラソンを通して人生を豊かにしていこうと思う。
色んな意味で!
あれ?
僕がお願いしてたのは、『男性』じゃないんだけど・・・
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。