「お前、、、何やってんの」
僕は座りながら健吾にそう言った。
チラッと僕の目を見た健吾はすぐに視線を外し、テーブルの真ん中あたりを真顔で見つめている。
早苗と会った時から日を置かずに健吾に連絡した僕はその週末、家の近くの焼き鳥屋で健吾と会った。
※この話の続き
「お車でお越しのかたはいらっしゃいますか?」
お通しのおしぼりを配りながら店員が僕たちに尋ねる。
僕はこの焼鳥屋を頻繁に利用している。
家の近くということもあり、自転車か徒歩で来ることができる。代行を呼ぶ必要がないので節約になるし、それなりに賑わっていて会話に聞き耳たてられたとしても聞こえない。
年中提供されるお通しの枝豆は、何度注文しても無料という、酒好きには嬉しいシステムもある。
僕はこのお店をとても気に入っている。
健吾も僕も今日は自転車で来ていた。
そのむねを店員に伝えると『今日も一日お疲れさまでした』と書かれたコースターが配られた。
もし車で来ていた場合には『代行車を利用します』のコースターが配られる。
飲酒運転撲滅に一役かおうとするお店の姿勢が素晴らしいし何より、そのような行為に対して注意喚起することで、お客さんを守ろうとしているお店側の心配りが嬉しい。
僕たちはとりあえずビールを注文しお通しの枝豆に手をつけながらメニューを眺めていた。
「離婚するから」
メニューで顔が隠れた後ろから健吾の声がした。
早苗のあの話を聞いた後だ。別に驚くような言葉ではなかった。
結婚式に招待した人を目の前に気まずく思ったのか、それともただ食べ物を選んでいるのか分からないが、健吾はメニューで顔をかくしたまま続ける。
「これはさ、俺だけが悪いんじゃない。早苗もかなり悪いんだ」
「不倫したのは健吾なんだろ?しかも妊娠中に。それ、酷いだろ」
ビールを待っている間、僕と健吾のこんな会話が続いた。
僕たちの会話を割くように、「お待たせしました」と店員がビールを運んできた。
乾杯はしなかった。グラスを合わせることはしなかった。めでたい話しじゃないからね。
お互いに一気に半分飲みほした。唇の周りについたであろう泡を僕は、手の甲で拭いた。
「言い訳聞くから話してよ」
そう僕が促すとため息をつきながら健吾は事の流れを話し出した。
長女の妊娠が分かった時を同じくして健吾は、ある女性に出会った。
それはとてもとても綺麗な人だったそうだ。
健吾はその女性と何度も遭遇した。会うたびに彼女はフレンドリーに健吾と話をした。それもそのはず。その女性は早苗の友達。
早苗の強烈な束縛に辟易していた健吾は少しずつ心に隙間ができ、その隙間に早苗の友達が入り込んでくるようになった。
彼女は独身。話題の豊富さや冗談のツボも合い。話していてとても楽しい。そのうえ容姿も健吾の好みバッチリで生活感溢れる早苗とは違い、キラキラと輝いて見えた。
そんなあるとき、仕事の飲み会に参加していた健吾は、店のトイレでばったり早苗の友達と鉢合わせした。
胸ポケットの携帯は早苗からのいつもの疑いと束縛の着信が震えている。その着信に出ようとトイレに立った時の鉢合わせだった。
たった一度の浮気を悔い改め健吾は、早苗の信頼を取り戻そうと一生懸命生きてきた。本当に真面目に生きてきた。
今だって仕事の最中だというのに律儀に早苗に対応しようと席を立ったところだ。同席している人たちに不快な思いをさせないようにとの気遣いもある。
飲みの席で嫁さんから電話が来たなんて、恥ずかしくて言えたもんじゃない。
健吾にはこんなことが何度も続いていた。どんなに頑張ろうとも、どんなに年数が経とうとも一向に早苗は健吾を信頼することはなかった。健吾は早苗にいい加減うんざりしていた。
目の前にはとてもとても綺麗な女性がいる。キラキラと輝く女性がいる。
冗談だった。冗談のつもりだった。
健吾はばったり遭遇した早苗の友達に「今度二人で飲みに行かないか」と誘いの言葉を投げていた。自分は酒が入っている。冗談だって!が十分に通用する場面だ。
驚くことに返答は「OK」
そこから健吾の不倫は始まった。
ここまで黙って聞いていた僕は呆れてしまった。健吾と早苗の友達に。
健吾のグラスも確認しないでビールを追加した。自分の分だけ。
確かに恋愛にルールは無い。男と女が出会った時、そのこに何かの引力がはたらいて猛烈に惹かれ合うことはあるのかもしれない。その引力がなんなのか。そんなものは誰にも分からない。だから恋愛にルールは無いのかもしれない。
しかし、ルールは無いがモラルは必要。まして健吾は既婚者。自分の立場を考えれば、妻以外の女性を好きになるという行為がどんなに危険なものなのか、考えなくても分かる。
確かに健吾の気持ちは分かる。そりゃ僕だって男だもの。タイプの女性が身近に存在したなら、いたずら心が湧かないとは言い切れない。でもそれはあくまでも自分の心の中だけの事。実際に行動するなんて出来っこないし、しようとも思わない。パートナーを裏切るということもあるが、家庭崩壊というリスクは一時の火遊びには大きすぎる。
早苗も早苗である。いい加減に健吾を信頼してあげればいいものを、執拗に健吾を束縛するその様は、一種異様さを感じさせる。しかしそれは、裏切られた人にしか分からない心の傷であるかもしれないし、または健吾を愛する気持ちからなのかもしれない。
健吾が話す不倫の話はもう既に何年も前のこと。僕は呆れはしたが、割と冷静に聞いていることができた。
「もうその女性とは終わったんだろ?」そう尋ねる。
数か月付き合って別れたそうだ。これは男性あるあるかもしれないが、健吾の方が本気になり真剣に離婚を考えた。離婚を行動で示そうとした矢先、不倫相手の女性は引いた。行動に示すとはつまり、早苗に離婚を切り出したのだ。長女が生まれてまだ3か月も経っていなかったという。
「離婚はその前から考えていた。どうにかしてこの不自由な環境を変えたいと思っていた」
健吾には早苗に対する不満がいくらでもあった。離婚したいという言い訳はなんとでもなった。
確かに健吾の気持ちは分かる。健吾の行動にいちいち不安になり疑わなければならないなら、そもそも健吾と結婚なんてしなければいいのだ。健吾が浮気をしたのはまだ付き合っている時だ。そんなに疑わしい相手なら結婚などしなければよかったのだ。
離婚は不倫する前から考えていたという健吾の気持ちは分からなくもない。
「確かに早苗の束縛は異常だからな・・・・」
僕用に運ばれてきたビールを受け取りながら、健吾の分も注文してやった。
健吾は早苗のせいで友達を沢山失ってきた。友達づきあいは特に早苗の疑いを強めたから。『外で何やってるか分かったもんじゃない』これが早苗の口癖だ。
僕が遊びに行ったとき、冗談なのか本気なのか分からないテンションでそう言っていたから。
意外に早く健吾のビールが到着。
「あのさ」と言って健吾はビールを一気に飲んだ。今到着したばかりのビールは、残り四分の一を残してテーブルにそっと置かれた。
座りなおした健吾の顔はとても真っすぐな目が付いていて。ちょっと怒っているようなもしくは、泣くのをこらえているような、そんな表情だった。
「この話は墓場まで持っていこうと思ってたんだけど」
テーブルの上に両腕を組み、肘に体重を乗せ前のめりになり、何故だか背筋を伸ばした健吾はそのまま淡々と語りだした。
僕は科学的思考の人間だから、元来お化けの類は信じていないし怖くも無い。
だって僕は知っている。お化けなどより人間の方がよほど冷酷で恐ろしい生き物であることを。
健吾の話はまさにその証明だった。
つづく
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。