親孝行をしたい時分に、親は無し
僕の育った家庭環境は、けっして良いものではなかった。
だから僕たち家族同士の関りも弱い。
そんな中で、当然お互い年齢を重ねて、老いていく。弱っていく。
おじいちゃんがそうだった。
70歳を迎えたあたりから、老いという名の体の弱りが始まり、入院したり。
脳梗塞の後遺症で、言葉を普通には発音できなくなっていた。
僕も大人になり、少しは家族や親のありがたみを感じるようになった。
たまに帰る実家では、なるべく会話を自分の生活ぶりを報告するよう、務めた。
弱っていくおじいちゃんに、ボケ防止のため、昔一緒にやっていた将棋を、また一緒にやろうともちかけ、簡単な将棋本をプレゼントとして渡した。
小さいころの僕は、おじいちゃんに将棋を習った。でも今は師匠であるおじいちゃんより僕のほうが強いはずだ。
日々の時間をもてあましているおじいちゃんを、少しでも楽しませたかった。
将棋の駒などは実家にあったので、次に来たときには、将棋を指そうと思っていた。
別にその日でもよかったが、少しめんどくさかった。
帰り際、椅子に座ったまま微笑みながら見送ってくれたおじいちゃん。
次に来た時には絶対に将棋を指そうって言って約束を交わした。
その二日後におじいちゃんは突然亡くなった。
僕はこの出来事が忘れられない。
いつまでも変わらない物なんてありえなくて、いつもいてくれる人が、必ずいつもいてくれる訳ではないのだ。
「行ってきます」と朝に交わした挨拶の続きの、「ただいま」を聞ける保証はどこにも無い。
ほんの少しの後悔が、心のシミとなって上書きされることなく残っていく。
一年に一度の帰省と考えたとき、あと何度親の顔を見れるのか。数えたことはあるだろうか?
どんな環境や関係であれ、親とは自分のルーツそのものである。
自分の今がどんなであれ、この世界に産み落とし、可視光が彩るこの世界の尊さを体感させてくれたのは、間違いなく両親なのだ。
僕を産み育ててくれた、そのことだけで感謝に値する素晴らしい仕事をしてくれたのだと、十分に理解できるようになった。
特別なことなど必要ない。
元気な姿を見せてあげたい。
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。