『あなたが幸せなら、僕も幸せ』
もし僕に好きな人がいたら、その人と結ばれたなら、そう思えるだろう。
形はどうあれ、パートナーとしての契りを交わした人になら、そう思える。
これが片思いの恋だとしたらどうだろう。
好きな人が、他人の力によって幸せを感じている。
もっと具体的に表現するなら、『僕の好きな人が、その彼氏(旦那)と幸せに暮らしている』
このことを『良し』とできるだろうか。
本当にその人を好きなら、好きな人が幸せなことはいいことだ。
たとえ誰といようとも。
ただし、できることなら幸せな彼女に接していたい。
「あなたと一緒にいて幸せだ」と言ってもらいたい。
しかし人生とはそう甘くは無く、自分が好きな人と結ばれる確約はどこにも無い。
好きな人にパートナーがいる事の方が多い。
そうなると『片思い』になる。
さらに深く考えてみた。
自分とパートナーの契りを交わした相手でさえ『心変わり』はあるわけで、浮気とかそういう難しいことは抜きにして、契りを交わしたはずのパートナーが自分とは違う相手に幸せを感じているとしたら、その事を許せるだろうか。認められるだろうか。
『裏切られた』とか、そういう感情は無視して、『自分の好きな人の幸せ』を純粋に喜ぶことができるだろうか。
『片思いパターン』も『裏切られパターン』も、どちらの場合も『自分の好きな人』の幸せを喜ぶことが出来ないと思う。僕はね。
こうなると見えてくるのが『人の幸せを喜ぶには条件がある』ってことじゃないかな。
『自分が犠牲にならない』という条件が必要。
人は、自分が犠牲になってまで他人の幸せを喜ぶことはできない。
分かりやすい例えとして恋愛を持ち出したが、このことは恋愛に限らない。
困っている隣人を、困っている他人を助ける時にも同じことが言える。
『自分が犠牲にならない』という条件が。
他人の幸せを喜ぶためには、自分という『個』の安定が必須条件で、『個』の周りにある『余裕』の範囲内で他人の幸せを喜ぶことができる。他人を助ける事ができる。
ただし、この原則が唯一あてはまらない人が存在する。
『我が子』だ。
自分が犠牲になっても、我が子の幸せな姿を見たいと思う。思える。
我が子の不幸な姿を見るよりはマシだから。
まだ僕にはそんな場面は訪れていないし、一生訪れてほしいとも思わないが、我が子の為なら『己の命』さへ差し出してしまうだろう。
生物として存在している『己』の生命さへ惜しむ事の無い存在である我が子。
自分が人として生まれ、時間を重ね、人間界でいうところの『大人』という階段を登っている最中に感じることの出来たこの感情。
実に面白いと思う。不思議だと思う。
「当たり前だろ」と言われるかもしれないが、当たり前の理由を説明できるだろうか。
自分に子供がいるから良いとか悪いとか、そのような事を言いたのではない。
ただ、人生の経験として、我が子の存在のお陰で発見できる新しい自分を感じることができて、僕はまた一つ強くなり、また一つ小さな幸せを感じた。
世のカップルよ!子作りに励め!!
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。