他人を尊重し慈しむ心は、何も日本だけが声高に唱えているわけではなく、世界共通の『人間としての心』の教えだと思います。
その事を僕は当たり前のように実践してきました。しかし、必ずしもそのことが正解では無いのだと、いまさらながらに考えを改める事になりそうです。
僕は甘かった!!!
幼少期をへて学生になり、大人へと成長していく中で、さまざまな対人問題の経験を積んで私たちは現在に生きています。
会話のテクニック。言葉使い。メンタリストDaiGoの教え・・・・などなど、人との関りを円滑にしたい我々は、様々な知識を積み上げ、また自分自身も魅力ある人間になろうと日々自分を磨いています。
人間の心を動かせる人が世界を動かす
僕はずっとそう思ってきましたし、これは紛れもない事実です。
人間として尊敬できる人が、周囲に影響を与えていって、気持ちよく心を動かしていく。そんな理想の世界が広がっているのだと僕は思っていました。
だがしかし、現実の世界は・・・・・
世に名を売るビジネス界の重鎮たちの傲慢さ。
身近でいうなら、『仕事が出来る』と言われる人たちの、強引さ。
結果を出している人というのは、必ずしも他人を尊重していない。
この事実に僕は気づいてしまった。
僕は今日まで、何かを勘違いしながら社会人生活を送ってきたのかもしれません。
そもそも、仕事においてもプライベートにおいても『 他人とうまくやろうぜ』っていうスタンス自体が間違いの元なのだと思うようになりました。『うまくやろうぜ』を着地点にしている自分は、何か勘違いしているのかもしれません。
下記に僕の言葉の解釈を辞書を使わずに記載します。
尊重:相手の意見などを聞き入れ、繁栄させる。
思いやり:相手を気遣い、不快な思いをさせない。
優しさ:困っていたら助ける。負の感情は出さない、伝えない。
共感:相手の感情や意見に同調する。
他者とのコミュニケーションを円滑にするハウツーには必ず出てくる言葉です。尊重・思いやり・優しさ・共感
大まかに、これらのツールを使って他者とのコミュニケーションを繰り広げ仕事やプライベートを過ごして生きています。決して悪い事ではないし、むしろ他者を思う心遣いとしては、『良い』と思うのですが、よく考えてみるとそこに『自分』が無い。コミュニケーションとは単に相手に『気を遣う』ってことじゃない。自分と相手の違いを知り、そのことを互いに受け入れながら物事を前に進めていく。これが大事!ここが他社との関わりの本質なんだなって思う。
会社においては仕事のミッションをクリアすることが目的。
私生活においても、リラックスなのか楽しむ事なのか、美味しいものを食べるなのか、その時々で目的は様々。『他者と仲良くやる・うまくやろうぜ!』は目的を達成する道のりで『お互いになるべく良好にゴールしたいよね』っていう価値観のことであって、それ自体が目的ではない。気を使い自分が疲れてしまっては本末転倒です。
僕自身が大人から、もしくは世間から、他人への気遣いを『善』として意識づけられ、自分を多少犠牲にしてまでも他者を尊重させることが『美』であるという教育を受けてきたように思う。この事がいつしか自分の心を蝕んで『他人嫌い』『生きづらさ』を感じるようになった。いつしか僕の人生のミッションが『他人から嫌われない事』『他人に不愉快な思いをさせない事』になって生きていた。さて同じ日本人の皆さんはどうなのだろう?無下に他人を傷つけようとする人間が少数と感じるので、大概は皆僕と似たような考えを持ち、感じているのではないかな。
社会に出てからも『他人を大切にしろ』と人生の先輩から教わってきた。他人に嫌わることは何かデメリットが発生し、自分に不利益が起こると無意識のうちに考えていた。しかしどうだろう。他人に嫌われることは本当に不利益な事が起こるのだろうか?『自分』を犠牲にしてまで築いている『他者との関係』は本当に何かメリットがあるのだろうか?そもそも他人との関り愛を『損得』で語るべきではないと思うしね。自分にとってのいい人は『都合のいいひ人』とはき違えていないか。そういう見方がそもそも人間本来の価値を歪めている。
現代社会において会社内でもプライベートでも、自分を抑圧し個性をを出せない状態にメリットは少ないと思う。自分本来の力を発揮できないのだから。自分にリミッターを掛けた状態なのだから。『自分』というものを遠慮することなく表にだして、その自分を嫌う人がいればそれは仕方ないこと。取り繕ってまで好かれるってことは、自分を好いてくれてない事だから。取り繕った自分は本来の自分じゃない。
他人に嫌われたらどんな実害があるのだろう?
社長に嫌われたら:最悪クビ、昇給しない
上司に嫌われたら:査定が悪くなり昇給しないとか?
同僚に嫌われたら:孤立する
友達から嫌われたら:孤独になる
上記のどれも直接命に係わるような事は一つもない。それなのに他人への気遣いで疲弊した心は病気となって、命を奪う危険性をはらんでいる。もう比べようもない結論だなって思うのです。
他人との関りで『自分にとっての普通』『気を使わない・テクニックを使わない自分』を披露していく中で、『抑圧していない自分』を他人がどう思うのかは相手の問題。自分を愉快に思うのか不愉快に思うのか、コントロールするのは止めようと思う。
目的はそこに無いのだから
確かに意図せず間違った言葉を使ったりして相手を傷つけてしまうことは、この先もあるのかもしれない。でもそんなこと『お互いさま』でしょ。自分だって傷つけられることはあるしね。それを意図してやっているような人からは、こちらから避ければいいし、逆に意図せずした僕から避けていなくなってしまう人がいたら、それはそれで諦めるしかない。
テレビやネットや新聞からは、悪い人間の情報が溢れてくる。でもね、実際人間なんてそんなに悪い人はいない。2019年5月1日現在で日本の人口は1億2620万人。メディアに登場する『悪い人』は一日に数人程度だ。僕たちは善人に囲まれながら生きている。これは間違いない事実。その中にしっかりと自分も入っている。
当たり障りのない『良い人』って、なんかうさん臭い。こん風に自分では思ていたのに、うさん臭い人に自分がなっていたように思う。心を削りながら・・・
僕はここに宣言する。
普通の自分でいることを恐れません
味のあるオジサンになります
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。