『日にち薬』
とてもいい言葉だなと思った。
5月に誕生日を迎えた19歳の娘の顔が蘇る。
娘の誕生日会をやろうと前々から決めていた。
息子共どもスケジュールを開けて、「焼肉食べたい!」という娘の希望も聞き、あとはお店を決めるだけの状態で向かえた誕生日会当日。
誕生日から1週間遅れで祝うその会はちょっとしたトラブルを乗り越えて無事に開催された。
なぜ1週間遅れての開催だったのかというと、彼氏の存在があるからだ。
本物の誕生日当日には一緒に過ごしたい人がいるということである。
1週間遅れの誕生日会。トラブルというのはこの事で、当てにしていたお店が閉店してしまっていた。予約も取らず行動したのが悪かった。そこから慌ててお店を探し、なんとか誕生日会を開催することができた。
もう5度目となるお母さん(妻)がいない家族三人の誕生日会。
誕生日というものは、『産まれてきておめでとう!』『無事に今日まで生きてこれておめでとう!』という日。だから周囲の人々は誕生日を祝ってくれる。
でもね、もう一つの意味があるの知ってましたか?僕は最近知りました。
誕生日というのは母親が陣痛を乗り越えて、苦しさに耐えて、この世に僕らを産み落としてくれた日。だからお母さんに『ありがとう』を伝える日でもあるそうです。
なんだか納得。
考えてみれば当たり前のことのように思うのですがこれまで気づかなかった自分になんだか恥ずかしさを感じました。
僕は19回目の娘の誕生日会の場を借りてこの考え方を伝えました。
「お母さんにありがとうの日でもあるんだよ」と。
乾杯をし、初めの肉が焼けるまでの間に伝えたこの内容。この言葉。
言ってしまってから訪れた虚しさ。
娘の「うん」という返事と、無言で肉を反す息子の様子を見て久しぶりに離婚というものの影響の大きさを感じたのでした。
母親がいない生活。妻がいない生活。さまざまな事柄に忙殺されてゆく日々の中で、ふとした瞬間に思い出す彼女の存在。とてつもなく大きな物を失って失ってしまったのではないかと、そんな不安をぬぐい去ろうとする自分に困惑したりして。。。
きっとこの『離婚』という感覚には、いつまでたっても慣れることはないのだろうと瞬間的に感じました。
じゅうじゅうと肉が焼け、白い煙が立ち上り、香ばしい香りが食べごろを教えてくれる。
各々に箸を伸ばし口に入れながら少しずつ会話が弾んでゆく。
子供たちの口から伝えられる最近の出来事。初めて耳にする事ばかり。
如何に普段の会話が乏しいのか我ながら悲しくなる。
知らないことが多すぎる。僕も会話に加勢しようとこっそり温めてきた転職の意思を話したり。
激務になり、今まで通りには家事が出来なくなるから、手伝い頼むよだなんて、心配させるようなことを言ってしまったのは、自分の不安からくる自信の無さをお酒の勢いで吐き出してしまった結果なのだろう。
久しぶりの焼き肉。会話が弾み、僕はお酒がすすみ、ボルテージが上がってきた僕らは、人目もはばからず写真を撮ったりして。
スマホに映るその画像を回し見て娘が一言。
「お父さんと私って似てないのね」
実は僕がずっと気になってたこと。
娘が大人に近づくにつれ、人として外見が、顔が固まってくるにつれ感じる違和感。
確かめる術はある。ある種の『鑑定』をしたならば僕の違和感は明確な答えを得て消え失せる。
大昔に妻と喧嘩したとき、何度か発せられた妻の言葉が脳ミソから消えない。
「墓場まで持っていかなければならない事があるのよ」
当時は何も引っ掛からなかったあの言葉が、今は何故か気になってた仕方ない。
何なんだ?どういう意味だ?
まさかでしょ。
僕は決して調べはしない。鑑定はしない。
万が一の事があった場合、もし万が一があった場合、一人として幸せになる人はいないのだから。
このまま時を経て家族が成熟していく様を、世間に、元妻に、そして娘と息子の母親にこれが現実なのだと表現してゆくだけだから。
時間とともに僕たち三人家族は成熟さを増してゆくばかり。
これから娘や息子はパートナーを得て僕に紹介しにきたり、孫ができたり、いや失恋なんかで落ち込んだり。もしかしたら、家族で喧嘩なんかもするかもしれない。そんな、そんなありふれた日々を僕は子供たちと刻んでゆける。
時を日を重ねるごとに、脳ミソから些細なほんの些細な違和感は消えてなくなる。
なぜなら僕らはたった三人だけの本物の『家族』なのだから。
少しでも誰かの心に響けたら!
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。