雨のち いずれ晴れ

ホントは寂しがりやのシングルファザーが叫ぶ! 誰かに届け!誰かに響け!!

降り止まぬ日常を浴びながら

僕の住む町も遂に雪が消えた。

『肌寒い』という、冬の始まりか春の訪れかを表す言葉がぴったりな時期。最近では桜の便りも耳に入る。来た。やっと春が来た。

 

変わり映えしない日常にもわずかな揺らぎはある。

娘の進学が決まった。書類への記入。準備物の段取り。スケジュールの確認。高校卒業の前から次の新しい生活に向けて具体的な動きが始まった。

何と言っても娘が面白い。卒業式を境にパリピになった。友達と遊ぶことだけに夢中で、親である僕の心配などお構いなし。

「進学の準備は?」「課題の提出期限まで間に合うのか?」

3月に入ってから彼女はいったい何日家にいただろう。友達の家、彼氏の家。泊まる所ならいくらでもあるらしいが、だからこそ心配になるのが親というもので。

彼女曰「友達と離れ離れになる前に思い出を作っておく」そうだ。

 

自分の目の届くところに娘がいてくれる安心。今の僕にはそれが無い。娘に対しての『安心』がその量が少ない。悪さをするような娘ではないし、信頼しているのだけれど、この漠然とした不安はなんなのか。この不安感こそが『親のエゴ』なのだろうと、自分に苦笑いしてしまう。

社会的にも選挙権が与えられ、ある種の判断力を公に認められた年齢。大人の僕からすると、まだまだ精神的に未熟とはいえ、そろそろ手綱を緩める時が来たのかもしれない。

選択を繰り返し、その結果を経験し蓄積し方向修正をしながら僕らは大人になった。娘もまたそうなのだろうと自分を納得させることが今の不安を緩和する処方箋になっている。

 

 

娘の高校の卒業式で久しぶりに元妻と顔を合わせる機会を得た。

精神疾患を患っているとは聞いていたが詳しい事は知らない。離婚して5年になり、最後に会ったのは娘の入学式。3年ぶりに会ったことになる。

強い薬を飲んでいるのか、短い会話の間にも少しろれつが回らない彼女に心配を覚えた。どこかで元気に暮らしてくれればそれでいいというのが僕の彼女に対する感覚なのだが、その思いが揺らいだ出来事だった。色々なしがらみがあり直接連絡を取る気持ちにはならず、ここでも心配だけが僕の心に取り残され消える事が無い。

僕の彼女に対するこの『心配』はなんなのかと考えてみた。『未練』という類のものではなく、人としての『優しさ』や、途中まで人生を共に歩んできた戦友に対する『思いやり』という類の部分から生まれる気持ちなのだと理解している。

どうか彼女には健康に留意してほしい。

 

 

 

仕事においては、長期にわたるプロジェクトを終えた。少し休みたい気持ちはあったのだが、そんなに甘くはなかった。新しく舞い込んでくる案件をさばく日々である。

仕事におけるキャリアという意味で、次へのステップを考える時期になった。

人生は『勝ち負け』ではないと思っている。何を持って『勝ち』なのか明確な尺度が無いからだ。幸せというものに答えが無いように、その延長線上の考えだと思う。

人生とは一度きりと認識しているし、だからこそ後悔したくない。後悔はしたくないが、未来は誰にも見えない。

人間には責任がある。自分の人生を生きる責任だ。自分に対して責任をもって『選択』する権利がある。しかし選択した『結果』は選ぶことが出来ない。だから難しい。

僕は今、次のステップに向けて転職を考えている。同業他社への転職だ。自分の仕事にやりがいを感じ、極めたいと思っている。そのために必要なことなのだ。しかし、『不安』が付きまとう。この安定した環境を手放す不安だ。『チャレンジ』『スキルアップ』という言葉を見ると勇気が出て、『安定』『失敗』という言葉に気持ちが揺らぐ。まさに『選択した結果が選べない』からこその不安。今回の転職はリスクが伴う。大きなリスクだ。リスクを冒すかどうかの決め手は『目標の価値』にある。もう少し時間をかけてその価値を吟味するつもりだ。

 

 

僕は現在43歳である。子供は二人。長女は前述した通り高校を卒業した。長男は22歳。

僕の脛をかじりにかじりまくって進学したと思いきや、わずか1年で自主退学。現在は希望とは違う仕事をしている。正社員であるから安定はしているので親としては一安心なのだが。

そんな彼が行動を開始した。ちょうど彼の同級生は大学を卒業する年なのだ。そこを目指していたらしい。

ここ一年あまり部屋にこもり僕との会話も少なく、遊びにもほとんど行かず、いったい彼は何を企んでいるかと思いきや、「東京に行く」と言いだした。

彼は『夢』を持った。どうやらそうらしい。僕に夢などあっただろうか。お金を稼ぐ年齢になり必要になったから就職したのだし、その仕事に夢など感じなかった。自分が何をやりたいのかさえ分からないまま、ただ金を稼ぐために就職した。そんな僕だから『夢』を持つことの素晴しさ、大切さは痛感している。彼はまだ若い。何度でも失敗できる。そんな彼だが、最近では未知へのチャレンジに不安を口にする。見えない未来に怯え、弱音を吐くこともある。そんな彼に僕は「行ってこい!」と発破をかけている。

今やらなくていつなるんだ。いつチャレンジするんだ。『若さ』という特権には期限がある。有効に使ってほしい。

 

 

 

こうやってコロコロと日々を繰り返している。しかしその日々は昨日とは全く違う『新しい一日』だ。今日とは、今とは、自分にとって人生の最前線なのだ。

僕はまだ人生の目的と呼べるものは見つけていない。しかし希望ならある。こうなりたい。こうあるべきだという希望だ。そういうものがあるから、それに到達できるか出来ないかという意味において『失敗』や『成功』という評価が生まれ、選択の結果を恐れるのだろう。

 

『僕は、僕は』と一人称で書いてきたが、でもこれ、みんな一緒なんだよね。未来が見通せないこと。選択の結果を選べない事。これ人間みんな一緒なんだよね。みんなきっとビビりながら勇気を出して進んでるんだよね。

 

そういうことなんだと思う。生きるって。

 

 

少しでも誰かの心に響けたら!!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。