雨のち いずれ晴れ

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お金は万能であるが全てではない【貸し借りに見るお金の本質】お金と信頼は別物  婚活の条件に堂々と年収を持ち出す人間が嫌われる理由

過激なタイトルになってしまったが、改めて『お金』という物を考えて頂きたい。『お金』とは何か?『紙幣』である。または『貨幣』である。『紙幣』とは何か。日本銀行が発行する『日本銀行券』の事を指す。『貨幣』は、国が発行する『硬貨』を指す。ここまでは知識として覚えていたが、その先は忘れたので、もう一度経済の本を読みなおして勉強してみた。

 

物々交換から始まった昔の市場(マーケット)。山間部の人と沿岸部の人とが互いの物を交換した。互いが持っていないものを欲し、交換し、そして双方が『得』をするウイン・ウインの法則で成り立っていた。しかしこの取引は『欲望の二重一致』が成り立たたなければ成立しない。自分が持っているものが相手の欲しいもので、なおかつ相手が持っているものを自分が欲する状態。

取引を行うとき(物々交換)必ずしもこの『欲望の二重一致』が成立しない不便さを解消するために、『貨幣』が開発された。とりあえず『なんでも交換できるもの』に一度変換することにしたのだ。一番最初は『貝』だったらしいが定かではない。

このように一度貨幣に変換してから自分の欲しい物を手に入れた。このような仕組みを『貨幣の交換媒介機能』と言う。モノとモノとの交換を媒介するというい意味。

さらに『貨幣』システムのメリットが発生した。生ものは貯蔵できないが、貨幣は腐らないから貯蔵できる。『富の貯蔵機能』が加わった。これが『お金持ち』の始まりであり格差社会の始まりである。

 

 ここまでつらつらと、『お金』の基本について記述してきたが、さて本題。

時間がある人は下記のリンクを読んでもらいたい。

p-shirokuma.hatenadiary.com

この記事では、お金を貸して絶縁するだけの話 - やしおの元記事を解説しながら、考察を述べる内容になっている。

 

僕は現代の資本主義というか、お金こそ全てみたいな考え方に違和感と疑問を持っている。ていういか、感覚的にムカつくのである。たしかに僕たちの住む世界は『お金』の力によってさまざまな恩恵を受けていることに異論は無いし、それによって生まれる競争が今日の現代社会の発展に寄与してきたことの意義を疑ってはいない。しかし、お金とは、『手段』であり『目的』ではない。このことを声を大きくして叫びたいのだ。

先に解説した通り、『お金』とは物を得るために交換する媒介物であり、お金自体が物にはなり得ない。お金は食べることが出来ない。食べ物と交換することは出来るが。極論を言えば、お金と交換しなくても食べ物を得ることが出来ればいいだけの話である。仮に食べ物を貰えたとしたら、実際にそこにあるのは人間と人間との信頼関係だけなのだ。食べ物を貰った代わりに、他の価値で返すことを約束できたなら、お金という媒介物は必要なくなる。世知が無い世の中が永遠と続いた結果、信頼関係を目に見える形にしたのがお金ということになろう。別に形として表さなくてもいいのなら、お金は必要なくなる。

 

 

今回の元記事になっている、【友人に金を貸したが返ってこなかった】いう事象を基に、「たとえ友達であれ、お金の貸し借りはいけないことだ。信用を失う行為だ」という内容を読んで、お金の意味を再確認することができた。

身近な人(知人など)にお金を貸すという行為に違和感や嫌悪感を抱く人間。どんなに親しい人にでもだ。なぜなのか?

 

お金とは信頼関係を担保する道具。信頼関係を担保する道具を、はなっから信頼関係が出来上がっているはずの人間に借用を求める行為の不毛さ。このことに違和感を感じるのだ。

 

たとえば、何か必要な物があって、お金が無いから買えないとする。

「僕の為にお金を貸してほしい」とお願いされるのと、「僕の為にこの物を買って欲しい」とお願いされるのと、どちらが強く違和感を覚えるだろう。

お金を貸すよりなら、物を買い与える方が違和感が薄くないか。物を買い与える方が、まだ相手に対して目に見える形で役に立っているという安心感みたいなものを感じることができるのではなかろうか。

 お金だけを求められた場合、自分という価値、自分と相手との間にある信頼を目視することができず、不安という違和感、嫌悪感により疑心暗鬼になるのではないか。

 

 

お金の貸し借りにりに違和感や嫌悪感を感じるという事は、結局『お金』は信頼を目視し、確認することが出来ない『ただの紙』であるという証拠だ。しかもお金は何にでも変換できる。『貸してほしい目的』が必ずしも果たされる保証もなく、こちらの善意が真の意味で満たされた実感に乏しい。僕たちはそのことを無意識に理解している。だらか親しい間柄の人でさえ金の貸し借りに違和感と嫌悪感を覚える。

 

 金を貸すぐらいなら、「欲しい物や困っていることを解決してやるから、家事やその他の労働や、あなたが持っている他の物を対価として交換しよう」というスタンスの方が、よほどしっくりきやしないか。これこそが信頼関係であり、人肌の温かみを感じ相手に対して信頼を置く行為である。

 

 

現代の社会では、お金の媒介によるシステムは、無視することのできない世界になっているし、その重要性も十分に理解している。しかし、こと人間関係において、お金の話を持ち出すことは必ずしも得策とは言えない。金持ちと貧乏、勝ち組、負け組など人間の上下をイメージさせる言葉を発することだ。会話や文章の内容によっては、人間性を疑われ、不愉快な思いをまきり散らす。

 

社会において、人生において、まずは『人』が先で在り、『お金』はその後である。『お金』=『人』という対等な価値では無い事を再認識して頂きたい。

 

 

人間関係の成熟が必要条件の行為と言えば結婚である。

そのための婚活とは、人と人とを結ぶ行為であって、『人』と『モノ』を結ばせるわけでは無い。結婚の条件に、迷うことなく『お金』を持ち出す人間は、とどのつまり、お金(モノやサービス)と人間を同等に見ていることに等しく、パートナーとの経験や過ごす時間や命の尊さを軽視した言葉に聞こえるのだ。自分の『欲』を満たすために結婚を望んでいるのかと、疑いたくなる。

お金の量は社会に対する信頼の担保にはなるだろうが、対人関係では機能しない。お金持ちが全て良識ある人間だとは限らないし、お金の量が優しさや思いやりの量と比例する訳ではない。DVやモラハラなどは、お金の量とは関係ない。

 

 

あなたや僕の『人を見る目』は曇ってしまっていないだろうか。お金の量で人を上下に区別し差別していなだろうか。もしそうなら、人間のありのままを直視出来ない、物欲と利便性に取りつかれた『歪んだ心の持ち主』だと認識すべきだ。なぜなら、初対面でも、金持ちや貧乏と聞いただけで、その人のイメージを変えてしまう感性の持ち主だからだ。人間を図る物差しが『お金』ということになる。このことが『善』なのか『悪』なのか、現代の世の中で、はっきりと答えを出すのは難しい事なのかもしれない。

 

しかし少なくとも他人を尊重し慈しむという『人間らしさ』、人の生きる意味や尊厳という『人間本来の価値』という観点からみれば、そこに『お金』の入り込む余地は無いと思う。

 

 

信頼関係を構築する前から、はばかりもせず『お金』の話を持ち出す輩が増えたことに嘆きの一石を投じた昭和生まれの初老の戯言でした。

 

                    気に障った方、ごめんなさいm(__)m

 

 

 

少しでも誰かの心に響けたら!!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。