先日、ある女性と討論になった。
お互いにお酒が入り溢れんばかりのエネルギーを抑止し、感情的になりそうな熱い気持ちを抑えながら。
彼女にはパートナーがいる。パートナーと言っても結婚しているわけではない。俗に言う『彼氏』というやつだ。
会話の流れから「僕と2人でお酒をのんだりして、嫉妬されないのか?」と冗談100%で発言したのがきっかけとなった。
彼女は僕の二つ下。42歳になる。僕と同じ独身貴族。立派な大人の女性だ。流行りのゆったりとしたシルエットの服装はファッションに無頓着になってきた僕を責めているような感覚にさせる。
彼女曰く「彼氏にいつ裏切られてもいいように完全には信用していない」とのこと。自己防衛の手段であり、傷つかないための心の準備なのだと言った。しかしながら結婚したいぐらい好きなのだそうだ。自分にはもったいないぐらい素敵な人とのこと。
要は、相手の心変わりも含めて、いつやってくるとも分からない『別れの時』におびえているのだろうと推測できる。
ちなみに今現在、彼氏に疑わしいことは一つも無いそうだ。
ここから僕との討論が始まった。
結婚したいぐらい好きな人を完全には信用していないとはどういうことか。僕には理解できなかった。
ここから先は僕が彼女に話した持論を書いていく。恋愛観は人それぞれで賛否があるのは承知している。
●別れへの不安
生きている限り『別れ』は避けられない。何人たりとも。その時期がいつ訪れるかだけの問題。
パートナーとしての契りを交わしている状態で相手が死を迎えるパターン。
もしくは心変わりや恋敵の出現によって契りを解消されるパターン。いずれかである。
彼女が心配しているのは明らかに後者である。
僕は思う。自分の好きな人が幸せになるのならそれでいいではないか。たとえ幸せを感じる対象が自分じゃなくても。だって、自分が好きな人には幸せでいてほしいから。
そう思える事こそが本物の『好き』もしくは『愛』なのではないのだろうか。
●疑うということ
相手を疑っている状態というのは、精神衛生上ともて苦痛である。心配が消えない。
もし万が一、浮気等も含めた恋敵の出現により別れが訪れるのであれば、相手から切り出されるまでの間は『疑いの気持ち』を抱いている分、不幸だと思う。いつそうなるとも分からないのに。
だったら『別れを切り出される瞬間』まで信じ切っていればいい。来るとも知らない瞬間に怯えて自己防衛して過ごしている間は時間の無駄である。
●本当に好きなのか?
自分が完全に信用できない人の事を『好き』と表現してもいいのだろうか。
共に過ごしている目に見えている『二人の時間』だけではなく、離れていて目視できない相手の時間さえも安心して受け入れられる。そんな人だからこそ『好き』なのではないのだろうか。
こんな話を長い時間を使って彼女と話した。
彼女からは「理屈は分かるが、あなたには感情が無い」と言われた。
結局のところ彼女は、相手を好きすぎるあまり『万が一』を恐れ、それが訪れた場合の対策として、自分の傷を少しでも浅くするため『完全には信用しない』というスタンスを取り続けるのだそうだ。
はっきりとお伝えしておくが、僕は彼女の言っている意味を十分に理解している。心情も分かっている。
でもやっぱり僕は思う。その瞬間までは100%楽しんで、信用して、信頼して。そう思える人だからこそ大好きで。だから幸せを感じることができるんじゃないかって。
人を信じるという事は、相手への期待ではなく、自分への決意なのだと僕は思う。
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。